「平等」について
平等って言葉はいいけれど、結果を平等にしたのでは頑張った人も頑張らなかった人も、もらえるものは同じという意味になる。
本来の平等とは「機会の均等」であって、「結果の均等」ではないはず。
わたしはメインとする職場の上のほうの人たちが、わたしたちフリーランスに対して時に「結果として平等であってほしい」と望むのがつらい。
担当する偉い人というのは、いつでも部長第二補佐だが、この人たちはいつも3~4年でよそに移っていく。よその部署やよその支部に。中には定年で去る人もいる。とにかく、長くてもだいたいそのくらいで、直接の偉い人は変わるのである。
そんな偉い人は、わたしたちの仕事状況など把握してはいない。
やってきて1年2年、その間に、ご自分で少しずつ知るわけだ。機器のことで何か相談や質問があったとき、Bさんでは分からずわたしに聞くことになったとか、周囲から「あそこの機器についてはあの人に聞いたら一番分かりますよ」と言われてわたしのことを知ったとか、Bさんが「この日は来られない」と言ったと秘書的スタッフから告げられて、わたしは穴を空けないと知ったとか、わたしが周囲からどう思われているか知ったとか、自分が接して態度がいいと思ったとか(なにしろ愛嬌と謙譲を心がけているので)。
ああ、あの人のほうが主副でいうと主だな、と認めてくださると、そこからは頼りにしてもらえる。
しかしそれもつかの間、偉い人は変わってしまい、わたしたちはゼロスタート。
どちらも平等のところからまたスタートを切らなければならない。
ときどき、特に出向組に多いが、「平等にしたい」と考える人が部長第二補佐になると、こちらは困る。
だいたい出向組の人は、わたしたちごときの仕事状況など、いる間も特に把握しようとしない。「どうせこのポジションにはいいとこ3年だから」というより、「そもそもこの組織にだって出向だから」というのが見える。
で、とにかく平等にしたいと考えたとき、この人たちの「平等」は結果の平等だから、「平等の時給」「平等のワークシェアリング」「平等の評価」「平等の待遇」を実現しようとする。
時給は平等で仕方がないが、「平等に分け合って」というのは、こちらからすると不平等になることもある。
たとえば、平等に分け合おうとしたら、もう一人の人が「私は難しいことは教えられませんから、簡単な講座しか担当できません」と言ったとする。(実際いた。)
すると平等なのは「時間数」だけであり、内容ではないので、その人は簡単なやりやすい講座のみ。わたしはプログラミング系に足を突っ込んだようなのとか、Web系とか、「Word基礎」「Excel基礎」などより難しいものばかりになってしまう。
Web系など移り変わりが激しいから、対応するために自腹を切って参考書なども買うことになる。するともう、「結果の平等」も崩れてしまって、わたしのほうが持ち出しが多いことになるのだが、それは偉い人の関知するところではないので考慮されない。
平等システムというのは、頑張った者に損になるときもある。
いつも思うのが、入札というシステムだ。
これは談合などを阻止するために、絶対に必要なシステムなのだと思う。
でもわたしは下っ端なので、現場側から見ることになる。
朝から晩まで、丁寧に床を拭き続けている男性が印象的だったビルクリーニング会社。
そこのスタッフの女性は、窓の外側の桟まで毎日のように拭いていた。
それに心遣いとサービス精神があった。パソコン機器があっていつも締切られている教室が、たまたま空いていると「ゴミがあったら捨てましょうか」とか「掃除機かけましょうか」とやってくれた。
その人たちは、ある日全員消えていた。
会社が入札に負けたからだ。
入札というのは値段だけで決まる。
「廊下と教室15部屋とすべての階のトイレの清掃」という条件は同じでも、「心配りのあるサービス」「丁寧なやり方」というのは決定に関わらない。
前の年、頑張って素晴らしい仕事をしても、次の年にそれが評価されたり考慮されたりすることがない。
もっと安い値段を書いた業者に移ってしまう。
頑張っても頑張らなくても結果が同じなら、頑張る意味ってあるだろうか?
警備会社も変わった。
なんの落ち度ももちろんないし、いつも見回りを欠かさないし、警備員さんは一人一人の顔を知っているくらいで、何か困りごとがあると頼りになっていたようだった。
一度、人を待ってしばらくロビーにいたとき、すぐそばで立って警備をしていた人が、言っていた。
「70までなんとか続けられたらと思うんですよ」
そのときおいくつだったのか知らないが、翌年、会社が入札に負けていなくなっていた。
新しい警備会社の人がよくないわけではない。
でもとにかく、どんな仕事内容だったかは問われない。
清掃会社のほうは、さすがに安く請け負っただけあって、システマチックなやり方だった。
そうして効率を上げることで、人員も減らせて、その分安い金額を提示できるのだろう。
でも「多少丁寧でなくても安いほうがわが社は大事だ」という判断をしたわけではない。
「安い」というそれだけで、仕事の内容については不問なのだ。
それが入札というものだから、わたしは自分の身に照らして、なんだかな、と思うのである。
インストラクターの仕事も同様で、職業の委託訓練などでよくそういうのを見る。
ある職業訓練の仕事で、登録していた派遣会社から単発的に行ったら、そういう話だったのだ。
「うちは去年はここ、とれなかったのよ」
「そうなんですか」
「×××って会社にとられちゃって」(わたしはそこにも実は登録してた)
「そうだったんですか。ありますね、×××っていうところ」
「入札だからね。その前の年はうちがとったんだけど」
わたしが思ったのは、わたしがインストラクター登録していて、この仕事をしていたら、ちょっと空しいなってこと。
このときメイン講師だった人は社員で、講習のない日でも会社には行く。マニュアル作成の仕事などをする。
だからいいけれど、派遣登録していて働いていたら、「契約とれなかったから終わり」となってしまう。
それを思うと複雑だった。
しかも、×××のほうから「こういう案件がありますが」なんて話があって、やる内容とやり方と自分自身の能力や知識は同じレベルなのに、時給は安かったりするわけだ。
・・・・・・
結びが思いつかなくなってちょっと考えていたら、そこに翌4月からの仕事について応援してくれる方からメールが来て、思考が途絶えてしまったので、ここで終わりとします。