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Status Message:周回遅れのビール日記(順不同)

「最強のふたり」(映画)を見てちょっと脇道にそれる

本当はもっと深いことだと思うけれど、それを議論しだしたら長くなりすぎるので(そんなにきちんと書く自信ないから)、問題提起に留めることにする。
 
 
お金があることについて
 
「フィリップはお金があるからね」というのがわたしの感想。いろいろ思ったけど、かなり大きく思った感想。インパクトの強さでいえば、この感想がNo.1
 
まず第一に、フィリップはまっすぐな人なのである。
機嫌が悪かったら、悪いように接する。
気に入らないことや人に対して、一言も口をきかずくるりと背を向けて去って行ったり、荒々しく言ったり、「あっちへ行け」と言ったりする。不機嫌な表情などはしょっちゅう。
 
わたしは少なくとも今のところは障害者と接する仕事をしている。(次年度はもしかしたらカットされちゃうかもしれないけど)。
ずーっと以前、わたしが働き始めて2年くらい経った頃だったか、かなり上の地位の人が言っていた言葉が記憶に残っている。
 
まとめるとこういうこと。
「肢体障害者はこちらの注意なども聞く傾向にある。力では勝てないからだ。たとえばもし階段の上に2人でいて、健常者がちょっと突いたら抵抗できず落ちてしまう」
もちろん押さないけど、肢体障害の人にはそういった心理的制約みたいなものがあるということだとわたしは理解した。
「それに比べて聴覚障害者は、身体的にはまったく互角である。だから反発や衝突をしてくることもある」
 
なるほど、そういえば、聴覚障害の人は天真爛漫、堂々としていて、人によるけど言いたい放題、やりたい放題の人もいる。肢体障害の人は、若くても素直な人が多い気がする。もちろん人はそれぞれ性格や個性がある。車椅子で厄介な性格の人もいた。でもそういえば、理論武装していたり、表面は人当りよく見えたり、工夫されている気がする。聴覚障害の人は表面をとりつくろわなくても、好きなように思いを態度に表せるように思える。
 
その後、わたしに強い印象を与えた車椅子の若者と出会った。(仕事で。)
彼は傘をさせないので、雨の日はかっぱを着て濡れてくる。車椅子の人ってそういうことが多い。
ある日、帰りに雨が降ったのでバス乗り場まで行くのに同行した。(わたしはただ同行していただけで、案内は別の人がしていた。)
バスに乗り込むにも運転手さんが下りてきてあれこれ作業が必要だった。その日の運転手さんは非常に態度の悪い人で、「ちっ、ついてねーな!」という感じで作業していて、非常に感じが悪かった。でも若者は「すみません」「ありがとうございます」と何度もお礼を言って作業してもらっていた。
案内していた人が「明日の朝、もし雨だったら、無理しないでタクシーでいらっしゃいね」と言っていたが、若者は渋っていた。タクシーの運転手さんに嫌がられることが多いからだそうだ。
彼の車椅子は電動車椅子で重い。それを雨の中トランクに詰め込むのは大変だし、汚れる。そして彼を座席に移動させなければならないし、着いたらまた車椅子を出して彼を乗せなければならない。人によると思うけれど、どんな運転手さんに当たるか分からないし、何度かそういう思いをしたら嫌になると思う。
翌日もバスで帰り、そのときは感じのいい運転手さんだった。でも作業がしっかりしていたので、その分遅く、バス内はしーんとただ待っている。他の乗客がどう思っていたか分からない。「こんなに待たされてまったく!」と怒っていたかもしれない――そうとは限らないのに、そういうときってマイナス方向に考えてしまう。だから若者はまた謝ったり、お礼を言ったりしている。
 
人に助けてもらわないとできないことが多いと、態度の悪い嫌な人間になりにくい。心理的な枷ができてしまう。
もし相手がキレて、「勝手にしろ」と車椅子と彼を路上に置いて去ってしまったら、車椅子に乗り込むのもひと苦労だし、そこから駅まで帰れるかどうかも分からない。(電動車椅子の場合は、バッテリーがなくなると動かなくなってしまうし、彼の腕力では車椅子を自力で転がす「自走」はできない。だから電動車椅子なのだ。)
 
そんな思いをいちいちしたくないから、わたしが出会った大人の車椅子の人たちの多くは、車移動を好んでいた。
 
だからつまり、フィリップはお金持ちだということだ。
嫌な態度を平気でとれる。
 
彼の周りにはたくさんの人がいて、役割分担があって仕事をしている。
介護者がフィリップの態度にむかついて虐待をしたら、介護者はクビにされるだろう。
介護者はフィリップが秘書や家政婦や弁護士や医師と会うのを阻止することはできない。秘書や家政婦や医師はそれぞれの仕事で、毎日フィリップと会うのだから。
医師ったって、もちろんそれはフィリップに高額で雇われている医者である。
 
フィリップに腕力はないが、マネーパワーがその代わりをしてくれる。
 
まあ、よかれと思って「こうすべきです」と言ってくる介護者にフィリップがいらいらするシーンはあった。クビにするとまた新しい者の面接から始まって面倒だからと、我慢しているシーンもあった。
 
でもまあ、やっぱりお金のない障害者とはレベルが違うわな。
 
 
フィリップが楽だろうってことじゃない。フィリップだって、信頼していたドリスにレストランに置いて行かれたときは、少し不安げな表情をしていた。(それはドリスがこっそりフィリップに恋人を呼んでいたからで、ドリスが意地悪をしたわけではない。念のため。)
 
でもまあ、やっぱり、お金があるのとないのとでは、いろいろ違うわな。
 
 
 
 
障害者とどのようにつきあうかについて
 
この点では、特に日本では、多くの人にこの映画を見てもらいたいと思った。
 
仕事でずーっと以前に少しだけ知り合った障害のある人が、お笑いの道に進んだというのを聞いて、YouTubeなどを見てみた。コントがUPされていると聞いたから。
重度の障害がありながらお笑いをしている人も前に見たことがあるけれど、その人は軽度の障害だった。
「自分の特技はこんな変な動きができること」(仮にしてます、ホントは違うんだけど)なんて笑いをとっていた。
 
でもコメントのひとつに書かれていた。「障害を笑いものにするのってどうかと思う」
 
太った人が自分のでぶをネタにするのはよくても、障害者が自分の障害をネタにするのはダメ。
 
わたしは太ってるからよく分かるけど、普段の生活では太ってることってタブーだよね? たとえば少ししかあきがないエレベーターで、「私、太ってるから定員オーバーになっちゃうと思う。次にするよ」と言ったとしたら、「あ、そうだねー」とは言われない。「えー、そんなことないと思うけど。でもいっぱいだから次でもいいかもねー」とやんわりとした答えになるに違いない。「ホントだよ、痩せなよ」と笑って言う人は、ちょっとぐらいの親しさでは皆無。
でも太った芸人がそれをネタにすると、みんな大笑いするし、太った人がいないランチの席などでは「よくあんなに太れるよねー」「すごいよね、どんだけ食べたらあんなになるんだろー」「健康がヤバイよねー」と話したりする。――あ、ランチの話は、背後で食べてる人たちの会話が聞こえてきただけ。もしあの場にわたしがいたら、その話はしなかったかもと思いながら聞いてた。
 
お笑いは極端な話だけど、とにかく日本では障害はタブーであって、障害について話すときは「そういう言い方は」とか「そういうことは」とか小さなこと、些細なことまで上げ足をとられるので気を遣う。
(この記事も些細な「ん?」という思いは、スルーしてくださるとありがたいです。)
 
それがどうだろう。
 
この映画では、ドリスはフィリップに全然気を遣わない。
そのシーンが実にうまく描かれている。あー、わかる! これ、障害者相手にはしにくいことだよね、でも普通の友達同士ならするよね、というのを平気でドリスがするシーンが並べられている。
そして「あんな素性も怪しい移民を介護者として雇うなんて」と心配する親類に、フィリップは「ドリスは私に気を遣わずに接してくれる」というような反論をする。親類は黙ってしまう。
 
m&m‘sみたいなひと口チョコを、ドリスは自分だけ食べていて、フィリップが「チョコをくれ」と言うと、口に入れるふりをして入れないとか。
――何回か遊んだあと、ちゃんと食べさせる。
フィリップが食べられないというのに、自分だけガツガツ料理を食べていたりとか。
――たぶん、フィリップが食べたいと言えば食べさせるのだろうけど。
「大丈夫、じっと座ってるよ。特に彼(フィリップ)は動かない()」と言ったり、フィリップの障害を冗談のネタにすることも多い。
 
普通に接すること。
そのとき相手のことを普通に気遣うこと。
――これだけでいいと思うけど、タブーなくらい配慮が必要だったり、当人たちが望まないほどの配慮がなされていたりする。
配慮は必要だけど、腫れ物に触るような扱いをしていては、本当に友達になったり家族になったりすることはできない。と思う。
 
この映画を見れば分かる。
 
いや、だって本当に、気を遣うのだ。この記事だってドキドキするくらい、障害のことを書くとどんな小さなことも突っ込まれたりする。
あと、普通に「こんなことがあってー」と話すと、やたらと感動されることも、今でもある。「障害がある人って、本当にえらい!感動的!」みたいな。
 
うちの父だって晩年片足が義足になってたし、義父も何年か前に脳梗塞で片麻痺になってるし、つまり家族にも障害者っている時代。
 
この映画、意識をちょっと刺激してくれる。そういう意味でいい映画。普段障害者と接する機会がない人は、見てもらいたい気がする。
 
 
 
 
おまけ
 
でもこの映画のドリスとフィリップを見て参考になるのは、やっぱり肢体障害や聴覚障害や視覚障害、内部障害くらいまで。
 
発達障害と精神障害は、やはり安易に「普通に接したほうがいい」とは言えないことも多い。と思う。一応付け加えておく。
 
あと、肢体障害でも人によって考え方も思いも違うから、全員が「普通に接してほしい」と思っているとは限らない。
これもアメリカドラマを見て、振り返って日本を見ると思うことだけど、日本人てわたしも含め「やっぱり言わないと察してくれないのね」とがっかりすることが多い。「当たり前じゃん、言わなきゃわかんないよ」と言ったり言わせたりするのが欧米だとしたら、この映画の感性は日本ではあまり通用しないのかも。




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