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Status Message:周回遅れのビール日記(順不同)

「最強のふたり」(映画)を見てちょっと脇道にそれて、さらに脇道にそれる

アメリカドラマを見て、振り返って日本を見ると思うことだけど、日本人てわたしも含め「やっぱり言わないと察してくれないのね」とがっかりすることが多い。

「当たり前じゃん、言わなきゃわかんないよ」と言ったり言わせたりするのが欧米だとしたら、この映画の感性は日本ではあまり通用しないのかも。

 
と、前の記事で書いた。
 
ちょっと補足すると、「欧米」と書いたけれど、これはわたしのイメージ通りではない。
 
●日本
以心伝心で察してもらうことを望む。
「言わないと分かってもらえない」とがっかりする。
 
●アメリカ
他人の心のことだもの、言わなきゃ分からない。と思ってる。
聞かれなくても自分の気持ちをはっきり伝える。相手側もうじうじしている人には「ちゃんと言って」と要求。
 
●ヨーロッパ(というか西欧)
国にもよるけれど、西欧はだいたい日本とアメリカの中間に位置している感じ。
「察してよ」と思っているけれど、日本人が諦めに入るのに対し、「こう思ってるのよ、察してよ!」とキレる。あるいはキレた行動をとり結果的にアピールすることになり、周りが「なぜなの?言ってよ!」「じゃ、言う、こう思ってるのよ、察してよ!」と言う。
 
北欧はもうちょっと違う感じ。
東欧もまた違う感じ。
南欧も違うね。
 
 
 
前置きは終わって本題。
 
以前、若い息子さんを亡くした知人が言っていた。
「人が息子の話をしているのを聞くと今でもつらい」と。
 
わたしは子供がないので、亡くす気持ちも、育て上げる喜びも知らない。
だからその痛みの程度は分からないけれど、心のメカニズムは分かる。
 
多くの人が、同じメカニズムによるネガティブな感情を、一度や二度は経験したのではないかと思う。
たとえばごくごく小さいところでいえば、自分が不合格になった検定に、一緒に受けた友達が受かった。「おめでとう飲み会」に自分も参加して、祝ってやらなくてはならなくなった。
――検定のための勉強をしているときの苦労、受かった喜び、今後の展望、そもそもがおめでとう飲み会だから、話題のメインはその検定だ。
5人で受けて、自分だけ落ちたなんていう場合、その飲み会に行って「おめでとう~!」と言わなきゃならなくて、聞きたくもない検定の受験秘話をずーっと聞いて、気を遣わせないように「私も次は絶対受かるよー!」なんて明るく言うのも苦痛だ。かといって、「あの人だけ落ちて可哀想だから、呼べないよ」と外されて、他から「おめでとう飲み会をやったらしいよ」と聞くのも苦痛だ。とにかく苦痛だ。
 
 
 
今、わたしが聞きたくないのは、子育ての話。
 
わたしには漠然と夢みていたことがあった。
自分に子供はないけれど、いずれIが結婚して家庭を築く。そうしたら「姪っ子が」とか「甥っ子が」とか言って伯母さんをやるのだ。
姪っ子が大きくなったら、ちょっと一緒に出掛けたりして、母親のIとは違うお気楽な伯母さん役をする。お小遣いもあげたり、何かあるごとに祝ってやったりして。
 
まあ、漠然とした白昼夢だ。
真剣に実現を考えていたわけではない。子供だって大きくなれば、自分の時間が大切になるし、実際は伯母さんなんかとどれだけ出かけたりしてくれることやら。
 
ただちょっとした心の支えではあったのだ。子供がいないというのは寂しいことだけど、血が絶えるわけじゃない。Iの子供たちが栄えていくだろう。という。
 
でもIは乳がんになった。病院に行くのを不安から先延ばしにしたために、もう手術を考える段階ではなかった。
「どうしてもっと早く病院に行かなかったの?」というのは、家族は言えない。気づいてやれなかった後悔は感じるけれど、「どうして?」とは言えない。言ったって時は戻せないのだし、戻せないのにそんなこと言われたって傷つくだけだから。
 
治すというより、現状維持。治すというより、なんとかして命を延ばす。
 
ホルモン治療、抗がん剤、いずれにしても子供はもう産めない。
結婚は――たぶんできない。でもこれは0%ではないから、0%だろうと思っても誰もそうは言わないけど、子供はもうできない。
 
どうしてIが?という思い。
いい子なのになぜ? & 家庭が似合うのに家庭を持てないなんて?
 
それともうひとつ。潰えた自分の白昼夢。
甥だの姪だのができないというなら、わたしより年下なIは、子供と同じではないけれどでもやっぱり、未来の象徴。
もしかしたら先にいなくなることもあるかもしれないなんて。
 
中年の危機の年代になって、ちょうどこういったことが起こって、わたしはかなりネガティブな気持ちになった。
更年期も入っていたかも。ホルモンバランスも乱れて、それがメンタルにばかり影響が出たという感じ。
 
病名が判明して1年は、たぶん何も考えられなかった。何をするでもないけど、必死だったから。
そのあと、薬が効いて落ち着く時期があったり、腫瘍マーカーが上がって薬を変えることになって揺れる時期があったり、上がったり下りたりを繰り返す3年、4年、わたしの気持ちはずっと振り払えない若干の鬱に冒されていた。
Iはもちろん、薬が変わるたび、動揺しては自分を取り戻すのを繰り返していた。
 
あまり人に語れなかった。
まあ、やっぱり他人事だし・・・・・・ 話したこともあったけど、「余命1ヶ月」なんていうのと違って、相手は飽きてしまう。こちらは動揺していても周りから見たら「落ち着いていて良かったわね」と見える。言葉に出ていない「まだ生きてるってことは大丈夫そうね」というのが聞こえてくる。
 
大丈夫じゃないよ。
 
そういう気持ちでいたから、わたしは子供の話を聞くのが苦手になった。
レベルは全然同じではないと思うけど、メカニズムは「人が息子の話をしているのを聞くのはつらい」というのと一緒。
「もう1年経ったから落ち着いたでしょ」と言われて、「子供を亡くして1年で落ち着けると本気で思ってるの?」と驚き、「人は察してくれないものだ」という思いを突き付けられるのと一緒。
 
――レベルは全然同じではないのだろうけどね。いわゆる「お腹をいためた」子供がいないわたしには、そのレベルがどのくらいのものか分からない。
 
だけどとにかく、わたしは人の小さい子供の話を聞くのがきつい。
 
 
 
・・・・・・これ、言えない。
 
知人に、可愛いお孫さんの様子をずーっとブログにUPし続けている人がいる。
ちょうどわたしのメンタルがボロボロになり始めた頃に生まれたお孫さん。
里帰りしている間中、ずっと可愛い新生児の写真三昧。
 
Iが持てなかった子供。これからも持つことのない子供。
 
娘さんが戻っていっても、毎日送られてくる写真を自分のブログにUP
 
Iが持てなかった子供。これからも持つことのない子供。
わたし自身の人生もIの人生も、これから未来に何も遺さずしぼんでいく一方に思える。
 
娘さんと結局同居することになり、孫の世話で忙しくなって更新が週1,2回に減ったけど、どんな話題のときも必ず孫の近況は長々とつづられる。
 
わたしもIも持てなかった子供。望めない未来。
 
 
病気が判明してからも、まだ治る希望を捨てていなかったIと行った婚活パワースポット。
その人のもう一人のお嬢さんはそのときまだ未婚で、「あそこは自分の従姉妹も効果があったから、絶対大丈夫」と言ってくれる。お嬢さんのために自分も行ったと言い、やがて「結婚することになった」、「結婚式の準備」、「結婚式の様子」・・・・・・
 
Iがすることのないであろう豪華結婚式。
わたしは結婚式をしなかった。でもきっとIはするだろうと思ってた。
 
 
 
Iは病気にならなくたって、もしかしたら結婚しなかったかもしれない。
そうしたらやっぱり子供だっていなかった。
 
それでもなんでも、とにかく、子供の話は聞きたくない。
 
でも察してはもらえない。
 
全開で孫話が炸裂するブログに、何度メールして「ごめんなさい、こういうわけでちょっと見るのがきついので、コメントを控えさせていただきます」と言おうと思ったか。
でも言えず。あちらはこちらのブログにコメントしてくれるので、無視できず。
 
――そういうときは、更新をやめてみましょう。「忙しくて最近SNSができなくて」と言えば、相手のFacebookも見る必要がなくなります。
 
雑誌でそういう忠告も見た。
でもそのたったひとりのブログを見たくないために、何年も毎日更新してきたブログを閉鎖するの? そんなの嫌だ。なんか違う。どうしてわたしが逃げなくちゃならないの?
引っ越しても相手が見ていると思えば「引っ越しました」記事も書けない。
 
 
 
可愛い赤ちゃんの話が、――今では可愛い幼児の話が、写真が、苦痛だなんて言える?
 
 
 
もう一人、ブロ友といえる人がいて、その人は虫や蛇などが苦手。
自分の庭のためにハチ退治をしたとき、捕獲したハチの入ったペットボトルの写真があるからと、記事の最初に「今日はそういう写真があるので、苦手な方は――云々」と注意書きを書いたりする。
 
わたしのブログでも、山歩きに行った記事のときなど、一度遠くのヘビが写っている写真があったとき、「今日は苦手なものが出てくる気がしていました、後でもう一度ゆっくり読んでコメントしようと思いましたが、できなくなりました」とコメントしてくれる。(嫌みではない。「ごめんなさいね」のつもりで言ってくれてる。)
 
 
 
わたしは可愛い小さな子供の写真が苦手です。
わたしは可愛い小さな子供が出てくる記事は遠慮したいです。
わたしは可愛い小さな子供の写真があると、あとはなるべく見ないように横目にして飛ばし読みしてコメントしてます。
 
でもヘビは「嫌いなの、そういうときはコメントしません、ごめんなさいね」と言えても、可愛い小さな子供については言えない。
 
 
わたしの事情を知っているのだから、分かってくれるのではないかという淡い希望は壊れた。
だって、わたしのブログの「この店に行ってパスタがおいしかった」という記事に、「孫の○ちゃんもパスタが好きになってきて、あーでこーで」とコメントしてくれるくらいだもの。
 
言わなきゃ察してくれない。
 
でも言えない。
 
だからこのブログを書き始めた、と言ってもいい。
誰にも教えないブログ。誰ともしがらみのある関係を作らないブログ。
言いたいことを言えるブログ。
 
 
 
ああ、ホントにね、ここ3,4年ずっとそうだったけど、今もそうなの。
 
わたしは可愛い小さな子供は見たくない。話も聞きたくない。




「最強のふたり」(映画)を見てちょっと脇道にそれる

本当はもっと深いことだと思うけれど、それを議論しだしたら長くなりすぎるので(そんなにきちんと書く自信ないから)、問題提起に留めることにする。
 
 
お金があることについて
 
「フィリップはお金があるからね」というのがわたしの感想。いろいろ思ったけど、かなり大きく思った感想。インパクトの強さでいえば、この感想がNo.1
 
まず第一に、フィリップはまっすぐな人なのである。
機嫌が悪かったら、悪いように接する。
気に入らないことや人に対して、一言も口をきかずくるりと背を向けて去って行ったり、荒々しく言ったり、「あっちへ行け」と言ったりする。不機嫌な表情などはしょっちゅう。
 
わたしは少なくとも今のところは障害者と接する仕事をしている。(次年度はもしかしたらカットされちゃうかもしれないけど)。
ずーっと以前、わたしが働き始めて2年くらい経った頃だったか、かなり上の地位の人が言っていた言葉が記憶に残っている。
 
まとめるとこういうこと。
「肢体障害者はこちらの注意なども聞く傾向にある。力では勝てないからだ。たとえばもし階段の上に2人でいて、健常者がちょっと突いたら抵抗できず落ちてしまう」
もちろん押さないけど、肢体障害の人にはそういった心理的制約みたいなものがあるということだとわたしは理解した。
「それに比べて聴覚障害者は、身体的にはまったく互角である。だから反発や衝突をしてくることもある」
 
なるほど、そういえば、聴覚障害の人は天真爛漫、堂々としていて、人によるけど言いたい放題、やりたい放題の人もいる。肢体障害の人は、若くても素直な人が多い気がする。もちろん人はそれぞれ性格や個性がある。車椅子で厄介な性格の人もいた。でもそういえば、理論武装していたり、表面は人当りよく見えたり、工夫されている気がする。聴覚障害の人は表面をとりつくろわなくても、好きなように思いを態度に表せるように思える。
 
その後、わたしに強い印象を与えた車椅子の若者と出会った。(仕事で。)
彼は傘をさせないので、雨の日はかっぱを着て濡れてくる。車椅子の人ってそういうことが多い。
ある日、帰りに雨が降ったのでバス乗り場まで行くのに同行した。(わたしはただ同行していただけで、案内は別の人がしていた。)
バスに乗り込むにも運転手さんが下りてきてあれこれ作業が必要だった。その日の運転手さんは非常に態度の悪い人で、「ちっ、ついてねーな!」という感じで作業していて、非常に感じが悪かった。でも若者は「すみません」「ありがとうございます」と何度もお礼を言って作業してもらっていた。
案内していた人が「明日の朝、もし雨だったら、無理しないでタクシーでいらっしゃいね」と言っていたが、若者は渋っていた。タクシーの運転手さんに嫌がられることが多いからだそうだ。
彼の車椅子は電動車椅子で重い。それを雨の中トランクに詰め込むのは大変だし、汚れる。そして彼を座席に移動させなければならないし、着いたらまた車椅子を出して彼を乗せなければならない。人によると思うけれど、どんな運転手さんに当たるか分からないし、何度かそういう思いをしたら嫌になると思う。
翌日もバスで帰り、そのときは感じのいい運転手さんだった。でも作業がしっかりしていたので、その分遅く、バス内はしーんとただ待っている。他の乗客がどう思っていたか分からない。「こんなに待たされてまったく!」と怒っていたかもしれない――そうとは限らないのに、そういうときってマイナス方向に考えてしまう。だから若者はまた謝ったり、お礼を言ったりしている。
 
人に助けてもらわないとできないことが多いと、態度の悪い嫌な人間になりにくい。心理的な枷ができてしまう。
もし相手がキレて、「勝手にしろ」と車椅子と彼を路上に置いて去ってしまったら、車椅子に乗り込むのもひと苦労だし、そこから駅まで帰れるかどうかも分からない。(電動車椅子の場合は、バッテリーがなくなると動かなくなってしまうし、彼の腕力では車椅子を自力で転がす「自走」はできない。だから電動車椅子なのだ。)
 
そんな思いをいちいちしたくないから、わたしが出会った大人の車椅子の人たちの多くは、車移動を好んでいた。
 
だからつまり、フィリップはお金持ちだということだ。
嫌な態度を平気でとれる。
 
彼の周りにはたくさんの人がいて、役割分担があって仕事をしている。
介護者がフィリップの態度にむかついて虐待をしたら、介護者はクビにされるだろう。
介護者はフィリップが秘書や家政婦や弁護士や医師と会うのを阻止することはできない。秘書や家政婦や医師はそれぞれの仕事で、毎日フィリップと会うのだから。
医師ったって、もちろんそれはフィリップに高額で雇われている医者である。
 
フィリップに腕力はないが、マネーパワーがその代わりをしてくれる。
 
まあ、よかれと思って「こうすべきです」と言ってくる介護者にフィリップがいらいらするシーンはあった。クビにするとまた新しい者の面接から始まって面倒だからと、我慢しているシーンもあった。
 
でもまあ、やっぱりお金のない障害者とはレベルが違うわな。
 
 
フィリップが楽だろうってことじゃない。フィリップだって、信頼していたドリスにレストランに置いて行かれたときは、少し不安げな表情をしていた。(それはドリスがこっそりフィリップに恋人を呼んでいたからで、ドリスが意地悪をしたわけではない。念のため。)
 
でもまあ、やっぱり、お金があるのとないのとでは、いろいろ違うわな。
 
 
 
 
障害者とどのようにつきあうかについて
 
この点では、特に日本では、多くの人にこの映画を見てもらいたいと思った。
 
仕事でずーっと以前に少しだけ知り合った障害のある人が、お笑いの道に進んだというのを聞いて、YouTubeなどを見てみた。コントがUPされていると聞いたから。
重度の障害がありながらお笑いをしている人も前に見たことがあるけれど、その人は軽度の障害だった。
「自分の特技はこんな変な動きができること」(仮にしてます、ホントは違うんだけど)なんて笑いをとっていた。
 
でもコメントのひとつに書かれていた。「障害を笑いものにするのってどうかと思う」
 
太った人が自分のでぶをネタにするのはよくても、障害者が自分の障害をネタにするのはダメ。
 
わたしは太ってるからよく分かるけど、普段の生活では太ってることってタブーだよね? たとえば少ししかあきがないエレベーターで、「私、太ってるから定員オーバーになっちゃうと思う。次にするよ」と言ったとしたら、「あ、そうだねー」とは言われない。「えー、そんなことないと思うけど。でもいっぱいだから次でもいいかもねー」とやんわりとした答えになるに違いない。「ホントだよ、痩せなよ」と笑って言う人は、ちょっとぐらいの親しさでは皆無。
でも太った芸人がそれをネタにすると、みんな大笑いするし、太った人がいないランチの席などでは「よくあんなに太れるよねー」「すごいよね、どんだけ食べたらあんなになるんだろー」「健康がヤバイよねー」と話したりする。――あ、ランチの話は、背後で食べてる人たちの会話が聞こえてきただけ。もしあの場にわたしがいたら、その話はしなかったかもと思いながら聞いてた。
 
お笑いは極端な話だけど、とにかく日本では障害はタブーであって、障害について話すときは「そういう言い方は」とか「そういうことは」とか小さなこと、些細なことまで上げ足をとられるので気を遣う。
(この記事も些細な「ん?」という思いは、スルーしてくださるとありがたいです。)
 
それがどうだろう。
 
この映画では、ドリスはフィリップに全然気を遣わない。
そのシーンが実にうまく描かれている。あー、わかる! これ、障害者相手にはしにくいことだよね、でも普通の友達同士ならするよね、というのを平気でドリスがするシーンが並べられている。
そして「あんな素性も怪しい移民を介護者として雇うなんて」と心配する親類に、フィリップは「ドリスは私に気を遣わずに接してくれる」というような反論をする。親類は黙ってしまう。
 
m&m‘sみたいなひと口チョコを、ドリスは自分だけ食べていて、フィリップが「チョコをくれ」と言うと、口に入れるふりをして入れないとか。
――何回か遊んだあと、ちゃんと食べさせる。
フィリップが食べられないというのに、自分だけガツガツ料理を食べていたりとか。
――たぶん、フィリップが食べたいと言えば食べさせるのだろうけど。
「大丈夫、じっと座ってるよ。特に彼(フィリップ)は動かない()」と言ったり、フィリップの障害を冗談のネタにすることも多い。
 
普通に接すること。
そのとき相手のことを普通に気遣うこと。
――これだけでいいと思うけど、タブーなくらい配慮が必要だったり、当人たちが望まないほどの配慮がなされていたりする。
配慮は必要だけど、腫れ物に触るような扱いをしていては、本当に友達になったり家族になったりすることはできない。と思う。
 
この映画を見れば分かる。
 
いや、だって本当に、気を遣うのだ。この記事だってドキドキするくらい、障害のことを書くとどんな小さなことも突っ込まれたりする。
あと、普通に「こんなことがあってー」と話すと、やたらと感動されることも、今でもある。「障害がある人って、本当にえらい!感動的!」みたいな。
 
うちの父だって晩年片足が義足になってたし、義父も何年か前に脳梗塞で片麻痺になってるし、つまり家族にも障害者っている時代。
 
この映画、意識をちょっと刺激してくれる。そういう意味でいい映画。普段障害者と接する機会がない人は、見てもらいたい気がする。
 
 
 
 
おまけ
 
でもこの映画のドリスとフィリップを見て参考になるのは、やっぱり肢体障害や聴覚障害や視覚障害、内部障害くらいまで。
 
発達障害と精神障害は、やはり安易に「普通に接したほうがいい」とは言えないことも多い。と思う。一応付け加えておく。
 
あと、肢体障害でも人によって考え方も思いも違うから、全員が「普通に接してほしい」と思っているとは限らない。
これもアメリカドラマを見て、振り返って日本を見ると思うことだけど、日本人てわたしも含め「やっぱり言わないと察してくれないのね」とがっかりすることが多い。「当たり前じゃん、言わなきゃわかんないよ」と言ったり言わせたりするのが欧米だとしたら、この映画の感性は日本ではあまり通用しないのかも。




「最強のふたり」(映画)

※あらすじってやっぱり見るのとは全然違うので、それだけ聞くと「面白いの?それ?」ってことが多い。見たい方は読まないほうがいいかも。ちょっと前の映画だけど、見てもいい映画だと思うので念のため。




公開されていたとき、知り合いと見に行きましょうかと話していた映画。


首から下が麻痺した億万長者の白人ミドルと、その介護者として雇われた黒人ヤング。
黒人ヤングの名前はドリス。白人ミドルの名前はフィリップ。


二人はとても気があって、楽しくやっていたのだか、ドリスには養母と弟妹たちの問題もあったし、フィリップは「これは君の一生の仕事じゃない」と彼を手放す。


でもやっぱり、新しい介護者とはしっくりこないのだった。
それを知ってドリスはフィリップを気晴らしに連れ出す。


もともとドリスはフィリップに遠慮せず、障害をネタにした冗談も言うし、やる(お菓子をたべさせないとかね)。フィリップにマリファナ入りのタバコも吸わせるし(呼吸困難みたいになったときも楽になったりする)、性感マッサージを2人で受けたりもした(フィリップは耳なら感じるので耳を傾けだけ)。
フィリップが女性たちと文通で観念的な恋をしていれのを知って、対面させようとしたりした。(フィリップが怖気づいてかなわなかったけど。)


ドリスもフィリップに打ち解けたが、フィリップもドリスに打ち解け、愛妻を病気で亡くしたことや、いまの娘は養女だということ、パラグライダーで自分は首からしたとが麻痺したことなども語った。


久々に会ってドリスと楽しく遊び、レストランに入る。
ドリスは自分は帰ると言い、フィリップを置いて去っていく。不安げなフィリップ。
そこへ、ドリスがお膳立てしたとおぼしき、かつて対面がかなわなかった女性が入ってくる。


エピローグ。フィリップは再婚してムスメが二人。
ドリスのほうも社長になり、結婚して子供がいる。
のだそうだ。




感想


お金持ちだからだよね。


いや、結婚のことだけど。


介護者も1週間と持たないこともあるフィリップ。
もともと最高の医療がないと生きていけないほどの障害なのだ。
結構気難しいし。


フィリップと文通してた。その間に心の交流はあったかもしれない。会ってみたら重度の障害者だった。でもいい人だった。
だからって結婚しようと思うだろうか? 彼女は思ったわけだ。フィリップならできるよ。
でもほかの人だったら? 結婚できる? そこまで好きになれる?


結婚しても自分ですべて面倒を見るわけじゃない。
億万長者なのだもの、奥さんの仕事は「妻であること」であって、介護は介護者がするだろう。
奥さんも多少はしたとしても、それはそこらへんの夫婦でもあり得る「肩こってるの? マッサージしてあげようか?」とかそういう話でしょ? たとえそれが排泄物の処理でも「いいわよ、今日は私がするわよ」くらいの。
世話をしないと生きていけないという状態で、すべてが自分にかかってくるとしたら、愛情があってもそれはもう義務、仕事みたいになってしまって追いつめられる。仕事みたいに辞めるわけにもいかない。
でもフィリップとなら、制限や不都合があっても、その分楽しみも多い。ケチケチしないで旅行にも行けるし、パラグライダーだってできる。演奏会にもオペラにも行けるし、ステキな服をお互いに買いあうこともできる。幸せな結婚生活が送れるだろう。


すごいと思うよ。いい人だったんだと思うよ。こだわりのない女性だったんだと思う。
幸せになってよかったねとも思う。いい映画だとも思う。


けなしてるわけじゃない。


ただ「フィリップならね」とも思うってこと。「お金持ちだからだよね」というのはあるよねってこと。


フィリップは車椅子に乗ってるけど、ビシッと洒落た格好をしているのだ。
お金持ちでなくて施設か何かで暮らしていたら、こんな格好できない。施設の人に頼んでもここまで上手に着せられない。連れてきてもらえない。


フィリップがお金持ちでなかったら、その女性は施設に会いに行くことになり、ステキなレストランではなく、重度障害者がたくさんいて介助されている施設で対面する。
フィリップの髪型はきまっていないかもしれない。入浴や身だしなみのケアはいいとこ1日1回で、もしかしたら昨日の昼に入浴して、今日はまだかもしれない。その間にまたいつもの呼吸困難が起きて大汗かいたかもしれない。
「やあ」「こんにちは」


いいお友達にはなれるかもしれない。


でももし一緒に暮らしたら、食事のたびに食べさせる。毎日排泄の処理をする。日々長いマッサージが必要になる。夜も発作で起こされることがある。水が飲みたくても、お菓子が食べたくても、髪をとかしたくても、顔を拭きたくても、物をとりたくても、介助が必要になる。お金がなければその介助をする人は、自分しかいない。すべての責任も自分にかかってくる。ケンカをしても介助はやめるわけにはいかない。


でもお金があれば物事はかなり解決する。



・・・・・・わたしもちょっと年をとってしまったので、・・・・・・そしていわゆる老後破産、絶対するだろうという不安があるので、思う感想は「お金があるっていいな」ということ。


いい映画だったと思う。好き嫌いは別にして、水準の高い映画だと思う。見て「もっと単純に明るいほうがいいなぁ、ちょっとシリアスなところがあって悲しくなるなぁ」という時期(人生の時期)もあるけど(2年前に見たらかなり強くそう思ったかも)。でもいい映画であることは確か。


それなのに自分はラストのほんの一言のナレーション&文章に、すべての感想がかすむほど強く、「お金があるから」とお金一色になってしまう。
ホントに、豊かなお金がないってことは、悲しいことなのだ。
若いころはそれでも、未来の自分はお金を持っているかもしれないと思えたからか、別物として楽しめる部分があった。今はね――未来が少なくなってきたので、見通せちゃうから。




ところでこの映画には、もっとカタいというか、語るべきこともある。
充分長くなったし、それはまた後日にしようと思う。





もうすぐ冬が来る

もうすぐ冬が来る。
 
そうなったらいよいよ職場Aの閑散期。
 
そのときに自分がどう過ごすか、ちょっとだけルールを決めておきたい。
 
以前アメリカドラマで、双極性障害の人が自分を立て直し中に、
「水曜は私が夕食を作る日なのよ。そのために庭で野菜も摘んだわ」
と言っていた。
 
(そう、「HOMELAND」。あまりに重いドラマで、Season3で見るのをやめた。)
 
つまり、その人には何かルールとか習慣があったほうがいいわけ。
「水曜はこれをする日」のような。そうすると生活にリズムができて、自分を立て直せるということなのだと思う。
精神障害への対処法として、そういうことをやっているのだと思う。
 
これはかなり、なるほどと思った。
 
こういうふうな、ちょっとした決まりごとがあると、だらだらと終わってしまわない。有意義なのんびり期間が過ごせる。
 
――ような気がする。
 
これまでもやったことはあったわけで、また挫折する可能性も大きいのだけれど。
 
あまり細かいものじゃなく、その程度のものがいい。
日々をこう過ごす、と細かく決めると挫折しやすいから、週1くらいで。
そうするとくずれかけてもそこで立て直せる。




Cさんへ

Cさんの毎日に寄り添ってあげられなくて、ごめんね。
 
Cさんと知り合った半年前は、Cさんと楽しくメールしてた。ちょっとドキドキもした。そんなふうに知り合った相手と仲良くなるなんて、なかったから。
それに、Cさんがとてもフレンドリーな人だったから、いろんなことを話して、テンションも上がった。
 
でもそのあと、わたしにはいろいろなことがあったの。
 
Iの薬が変わったこと。
そのとき、周囲が心配のあまりあれこれ世話を焼いて、Iが自分は治るという道はないんだと思ってしまったこと。言いたくないけど、悟らされてしまったってこと。
髪がなくなる薬に変わったら、もうずっと髪がなくなる薬のままだってこと。
結局、治るために強い薬に変えてるんじゃなく、ただどんどん強い薬へ――、終わりへと向かっているだけだって、突きつけられてしまったこと。
自分のステージと無理やり向き合わされたこと。知ってはいてももっと気楽に考えていたのに、楽観的な希望は消されてしまったこと。
 
自分が1つの仕事をクビになったこと。
クビになったわけじゃないと人には言われるだろうけど、自分に対しておためごかしてソフトな言い方をしても面倒なだけなので、自分の中では「クビになった」と表現してる。
結局、それが一番状況が分かりやすい。「組織改編があって、社内の雇用や体制を見直すことになって、わたしの契約が更新されず終了となった、わたし自身は特に辞めようと思っていたわけではなかったのだけれど」という長ったらしい言い方よりも。
 
心のどこかで思った。
これから先、フリーで休むことのできない職場Aと、休みを取りづらい単発の仕事でやっていくのはどうだろうって。
もしIの具合が悪くなったら? もし母が(まあ頑丈そうだからわたしより長生きしそうだけど)最期を迎えたら? 母の見取りも葬儀の手配もIひとりに任せるなんて、それは・・・・・・。
 
あれこれ考えながら日々を過ごしていたときに、もしかしたら週5のポストが1つ空くかもという話をこっそり教えてもらった。
これがいい潮時なのかも。そういう職に就いたほうが、何かあったとき家庭の事情で休んだりできる。
たいした仕事でなくてもフリーというのは休みをとるのはよほどのことなので、ここ3,4年は若干の不安がつきまとっていた。
 
今後を考えてみたら、わたしが働けるのはあと15年――そのあとはシルバーとして働く年齢。
自分の年にも気づいちゃった。
 
また中年の危機的ダウナームードが舞い戻ってきた。
 
今こそCさんは半年前からやっていたことが実を結び、友達としてはわー!!と大騒ぎしてお祝いするべきなんだと思う。
でもわたしはダウナーモードに入ってしまって、半年前とは違うテンションで、CさんにとってはわたしがCさんのことを気にしてないように見えてるよね。
 
ごめんね。
 
まだこんなことまで話せるほど、Cさんとのつきあいが長いわけじゃないから、言えない。
でも半年前と同じテンションを演出して表面を飾ることもできない。わたしは自分勝手なの。
 
ごめんね。
何度もそうメールしようと思ったけど、やっぱりできないから、自分ひとりだけでつぶやいて気持ちを整理するね。