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Status Message:I am strong enough

「最強のふたり」(映画)を見てちょっと脇道にそれて、さらに脇道にそれる

アメリカドラマを見て、振り返って日本を見ると思うことだけど、日本人てわたしも含め「やっぱり言わないと察してくれないのね」とがっかりすることが多い。

「当たり前じゃん、言わなきゃわかんないよ」と言ったり言わせたりするのが欧米だとしたら、この映画の感性は日本ではあまり通用しないのかも。

 
と、前の記事で書いた。
 
ちょっと補足すると、「欧米」と書いたけれど、これはわたしのイメージ通りではない。
 
●日本
以心伝心で察してもらうことを望む。
「言わないと分かってもらえない」とがっかりする。
 
●アメリカ
他人の心のことだもの、言わなきゃ分からない。と思ってる。
聞かれなくても自分の気持ちをはっきり伝える。相手側もうじうじしている人には「ちゃんと言って」と要求。
 
●ヨーロッパ(というか西欧)
国にもよるけれど、西欧はだいたい日本とアメリカの中間に位置している感じ。
「察してよ」と思っているけれど、日本人が諦めに入るのに対し、「こう思ってるのよ、察してよ!」とキレる。あるいはキレた行動をとり結果的にアピールすることになり、周りが「なぜなの?言ってよ!」「じゃ、言う、こう思ってるのよ、察してよ!」と言う。
 
北欧はもうちょっと違う感じ。
東欧もまた違う感じ。
南欧も違うね。
 
 
 
前置きは終わって本題。
 
以前、若い息子さんを亡くした知人が言っていた。
「人が息子の話をしているのを聞くと今でもつらい」と。
 
わたしは子供がないので、亡くす気持ちも、育て上げる喜びも知らない。
だからその痛みの程度は分からないけれど、心のメカニズムは分かる。
 
多くの人が、同じメカニズムによるネガティブな感情を、一度や二度は経験したのではないかと思う。
たとえばごくごく小さいところでいえば、自分が不合格になった検定に、一緒に受けた友達が受かった。「おめでとう飲み会」に自分も参加して、祝ってやらなくてはならなくなった。
――検定のための勉強をしているときの苦労、受かった喜び、今後の展望、そもそもがおめでとう飲み会だから、話題のメインはその検定だ。
5人で受けて、自分だけ落ちたなんていう場合、その飲み会に行って「おめでとう~!」と言わなきゃならなくて、聞きたくもない検定の受験秘話をずーっと聞いて、気を遣わせないように「私も次は絶対受かるよー!」なんて明るく言うのも苦痛だ。かといって、「あの人だけ落ちて可哀想だから、呼べないよ」と外されて、他から「おめでとう飲み会をやったらしいよ」と聞くのも苦痛だ。とにかく苦痛だ。
 
 
 
今、わたしが聞きたくないのは、子育ての話。
 
わたしには漠然と夢みていたことがあった。
自分に子供はないけれど、いずれIが結婚して家庭を築く。そうしたら「姪っ子が」とか「甥っ子が」とか言って伯母さんをやるのだ。
姪っ子が大きくなったら、ちょっと一緒に出掛けたりして、母親のIとは違うお気楽な伯母さん役をする。お小遣いもあげたり、何かあるごとに祝ってやったりして。
 
まあ、漠然とした白昼夢だ。
真剣に実現を考えていたわけではない。子供だって大きくなれば、自分の時間が大切になるし、実際は伯母さんなんかとどれだけ出かけたりしてくれることやら。
 
ただちょっとした心の支えではあったのだ。子供がいないというのは寂しいことだけど、血が絶えるわけじゃない。Iの子供たちが栄えていくだろう。という。
 
でもIは乳がんになった。病院に行くのを不安から先延ばしにしたために、もう手術を考える段階ではなかった。
「どうしてもっと早く病院に行かなかったの?」というのは、家族は言えない。気づいてやれなかった後悔は感じるけれど、「どうして?」とは言えない。言ったって時は戻せないのだし、戻せないのにそんなこと言われたって傷つくだけだから。
 
治すというより、現状維持。治すというより、なんとかして命を延ばす。
 
ホルモン治療、抗がん剤、いずれにしても子供はもう産めない。
結婚は――たぶんできない。でもこれは0%ではないから、0%だろうと思っても誰もそうは言わないけど、子供はもうできない。
 
どうしてIが?という思い。
いい子なのになぜ? & 家庭が似合うのに家庭を持てないなんて?
 
それともうひとつ。潰えた自分の白昼夢。
甥だの姪だのができないというなら、わたしより年下なIは、子供と同じではないけれどでもやっぱり、未来の象徴。
もしかしたら先にいなくなることもあるかもしれないなんて。
 
中年の危機の年代になって、ちょうどこういったことが起こって、わたしはかなりネガティブな気持ちになった。
更年期も入っていたかも。ホルモンバランスも乱れて、それがメンタルにばかり影響が出たという感じ。
 
病名が判明して1年は、たぶん何も考えられなかった。何をするでもないけど、必死だったから。
そのあと、薬が効いて落ち着く時期があったり、腫瘍マーカーが上がって薬を変えることになって揺れる時期があったり、上がったり下りたりを繰り返す3年、4年、わたしの気持ちはずっと振り払えない若干の鬱に冒されていた。
Iはもちろん、薬が変わるたび、動揺しては自分を取り戻すのを繰り返していた。
 
あまり人に語れなかった。
まあ、やっぱり他人事だし・・・・・・ 話したこともあったけど、「余命1ヶ月」なんていうのと違って、相手は飽きてしまう。こちらは動揺していても周りから見たら「落ち着いていて良かったわね」と見える。言葉に出ていない「まだ生きてるってことは大丈夫そうね」というのが聞こえてくる。
 
大丈夫じゃないよ。
 
そういう気持ちでいたから、わたしは子供の話を聞くのが苦手になった。
レベルは全然同じではないと思うけど、メカニズムは「人が息子の話をしているのを聞くのはつらい」というのと一緒。
「もう1年経ったから落ち着いたでしょ」と言われて、「子供を亡くして1年で落ち着けると本気で思ってるの?」と驚き、「人は察してくれないものだ」という思いを突き付けられるのと一緒。
 
――レベルは全然同じではないのだろうけどね。いわゆる「お腹をいためた」子供がいないわたしには、そのレベルがどのくらいのものか分からない。
 
だけどとにかく、わたしは人の小さい子供の話を聞くのがきつい。
 
 
 
・・・・・・これ、言えない。
 
知人に、可愛いお孫さんの様子をずーっとブログにUPし続けている人がいる。
ちょうどわたしのメンタルがボロボロになり始めた頃に生まれたお孫さん。
里帰りしている間中、ずっと可愛い新生児の写真三昧。
 
Iが持てなかった子供。これからも持つことのない子供。
 
娘さんが戻っていっても、毎日送られてくる写真を自分のブログにUP
 
Iが持てなかった子供。これからも持つことのない子供。
わたし自身の人生もIの人生も、これから未来に何も遺さずしぼんでいく一方に思える。
 
娘さんと結局同居することになり、孫の世話で忙しくなって更新が週1,2回に減ったけど、どんな話題のときも必ず孫の近況は長々とつづられる。
 
わたしもIも持てなかった子供。望めない未来。
 
 
病気が判明してからも、まだ治る希望を捨てていなかったIと行った婚活パワースポット。
その人のもう一人のお嬢さんはそのときまだ未婚で、「あそこは自分の従姉妹も効果があったから、絶対大丈夫」と言ってくれる。お嬢さんのために自分も行ったと言い、やがて「結婚することになった」、「結婚式の準備」、「結婚式の様子」・・・・・・
 
Iがすることのないであろう豪華結婚式。
わたしは結婚式をしなかった。でもきっとIはするだろうと思ってた。
 
 
 
Iは病気にならなくたって、もしかしたら結婚しなかったかもしれない。
そうしたらやっぱり子供だっていなかった。
 
それでもなんでも、とにかく、子供の話は聞きたくない。
 
でも察してはもらえない。
 
全開で孫話が炸裂するブログに、何度メールして「ごめんなさい、こういうわけでちょっと見るのがきついので、コメントを控えさせていただきます」と言おうと思ったか。
でも言えず。あちらはこちらのブログにコメントしてくれるので、無視できず。
 
――そういうときは、更新をやめてみましょう。「忙しくて最近SNSができなくて」と言えば、相手のFacebookも見る必要がなくなります。
 
雑誌でそういう忠告も見た。
でもそのたったひとりのブログを見たくないために、何年も毎日更新してきたブログを閉鎖するの? そんなの嫌だ。なんか違う。どうしてわたしが逃げなくちゃならないの?
引っ越しても相手が見ていると思えば「引っ越しました」記事も書けない。
 
 
 
可愛い赤ちゃんの話が、――今では可愛い幼児の話が、写真が、苦痛だなんて言える?
 
 
 
もう一人、ブロ友といえる人がいて、その人は虫や蛇などが苦手。
自分の庭のためにハチ退治をしたとき、捕獲したハチの入ったペットボトルの写真があるからと、記事の最初に「今日はそういう写真があるので、苦手な方は――云々」と注意書きを書いたりする。
 
わたしのブログでも、山歩きに行った記事のときなど、一度遠くのヘビが写っている写真があったとき、「今日は苦手なものが出てくる気がしていました、後でもう一度ゆっくり読んでコメントしようと思いましたが、できなくなりました」とコメントしてくれる。(嫌みではない。「ごめんなさいね」のつもりで言ってくれてる。)
 
 
 
わたしは可愛い小さな子供の写真が苦手です。
わたしは可愛い小さな子供が出てくる記事は遠慮したいです。
わたしは可愛い小さな子供の写真があると、あとはなるべく見ないように横目にして飛ばし読みしてコメントしてます。
 
でもヘビは「嫌いなの、そういうときはコメントしません、ごめんなさいね」と言えても、可愛い小さな子供については言えない。
 
 
わたしの事情を知っているのだから、分かってくれるのではないかという淡い希望は壊れた。
だって、わたしのブログの「この店に行ってパスタがおいしかった」という記事に、「孫の○ちゃんもパスタが好きになってきて、あーでこーで」とコメントしてくれるくらいだもの。
 
言わなきゃ察してくれない。
 
でも言えない。
 
だからこのブログを書き始めた、と言ってもいい。
誰にも教えないブログ。誰ともしがらみのある関係を作らないブログ。
言いたいことを言えるブログ。
 
 
 
ああ、ホントにね、ここ3,4年ずっとそうだったけど、今もそうなの。
 
わたしは可愛い小さな子供は見たくない。話も聞きたくない。




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