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Status Message:周回遅れのビール日記(順不同)

人間性の問題(アガサ・クリスティを読んで)

アガサ・クリスティを再読中。

 

ちょっと前に再読したときも思ったし、2,3日前にも思ったが、この作家が好きなのは、ジェイン・オースティンと同じ理由による。

人間性についての鋭い考察に裏付けられた物語。これが魅力なのだ。

なおかつ、それを冷酷に描こうとするのではなく、愛と、そして諦めというか悟りというか静かな甘受を持って描いていること。

 

ミス・マープル物を読んだことがあるなら知っていると思う。

ミス・マープルは人間性をよく知っていることを武器に、鋭い推理力を発揮する。いろいろな人たちは、ミス・マープルに村の誰かを思い起こさせる。類型というものがあるのだ。

ミス・マープルが住むセント・メアリ・ミードはのどかな田舎で、ふわふわした優しげに見える老婦人ミス・マープルのイメージにぴったりだ。「あなたがお住まいのようなのどかな田舎では、こういうことはないでしょうな」おきまりの文句で、人間性はどこでも変わらない、村のほうがより凝縮されるのでどろどろしている、というのがミス・マープルの答えだ。

ミス・マープルには作家として成功した甥っ子レイモンドがいる。ミス・マープルの話にしょっちゅう出てくる「甥のレイモンド」だ。彼は現代作家で、人間性を暴露する鋭いクールな文学作品を書くと評判なのだ。

しかし「甥のレイモンド」などの青くさい人間観察よりも、ミス・マープルの考察のほうがよほど鋭くて、冷徹で、容赦ない。これは『火曜クラブ』という初期短編作品で顕著に描かれている。

でも「甥のレイモンド」はいわゆる上から目線で、「おばさんのような平和に生きている人には分からないでしょうけど、人間てものの本性は薄汚いんですよ。僕はよく知ってますがね」風なことを言ったりする。

しかし『火曜クラブ』が進むにつれて、「甥のレイモンド」がミス・マープルに比べてずいぶん甘っちょろい観察眼しか持っていないことが読者には明らかになり、でもミス・マープルはそんな甥っ子を温かい愛情をもって見ているのである。レイモンドはまたしてもミス・マープルに(推理で)してやられたとき、「でもおばさんにもひとつ知らないことがありますよ」(自分がその日、画家のジョイスにプロポーズしたこと)と応酬する。ミス・マープルは答える。「まあ、知ってますとも。あの木の下でのことでしょう。牛乳屋の**もうちのアニーにあそこで求婚したんですよ」(正確なセリフは忘れた。)レイモンドは「いやだなぁ。牛乳屋の**なんかと一緒にしないでくださいよ」と言い、ミス・マープルは「人間なんてそんなに変わりはないものだ」というようなことを言う。

 

つまり、このミス・マープルなのだ。

ジェイン・オースティンもアガサ・クリスティも。

 

「マン島の黄金」は、アガサ・クリスティのそれまで本に収録されていなかった作品を集めた短編集だった。

著名な作家の没後、よく編まれるような作品集だ。

「クリスマスの冒険」は、読んでみると「クリスマス・プディングの冒険」じゃんと思う。でもちょっと短い。これは原型なのだ。「バグダッドの大櫃の謎」も、のちに「スペイン大櫃の謎」となる。そういう、これまでは本に収録されるまでもなかったものも入っていた。

また、オリジナルではあるが、これまでは漏れていたものも入っていた。

ミステリーではないものも入っていた。

 

ミステリーではないものを読むと、ミス・マープルより甥のレイモンド寄りというか、もっと直接的に人間性や、幻想や、怪奇を描いている。

それらを読んで、「そうか、アガサ・クリスティの作品は、レイモンドに対するミス・マープルのようなものなんだ」と気づいた。

ジェイン・オースティンもそうなんだ、と。

 

ほがらかな牧歌的なムードに包まれているから、すんなりと共感して受け入れられる。

でもその実、かなり辛辣なのだ。

 

辛辣さは、読んでいる側はたいてい、自分に向けられたものとは思わず読んでいる。

「人間てホント、こんなものだよな」と思いながら読んでいたとしても、それに気付いているだけ自分はましだと思うから、平然と読んでいられるのだ。

しかし実のところは、自分もそういう作中の愚かな、あるいは歪んだ心の人たちと変わらない。

自分は「知っている」というだけまし、ソクラテスが言った「無知の知」と同じ境地だ。そう思っている。(同じように愚かであったとしても、知っているだけ多少はまし。そしてこの場合、多少ましということは素晴らしくましなのである。なぜって、そのほんの小さな一歩さえ到達できない人間がほとんどなのだから。)

でも実は変わらないのだ。

 

ジェイン・オースティンにしろ、アガサ・クリスティにしろ、たぶん、書いている自分だって変わらないのだと知っている。だから批判的でない。甥のレイモンドに代表される文学作家たちは、「自分はそれら愚かな大衆の上にいる」と思っている。

ジェイン・オースティンにしろ、アガサ・クリスティにしろ、たぶん、多くの読者が「自分はそれら愚かな登場人物たちより一歩は先んじている」と思いながら読むことを知っている。いたずらっぽい目をして、笑って見ている。愛をもって。

 

それがいいんだろうな。

 

それがイギリスの憧れを誘うムードの中で、ミステリーという親しみやすい形で描かれているから、チラリと鋭い描写に気づいても、わが身を振り返ってチクリとすることはない。

でもこのチクリとしそうな鋭さがあるからこそ、クリスティの作品は魅力的なのだと思う。

もう答えを知っていても、もう一度読みたくなる理由なのだと思う。

 

 

 

 

ところで読んだのは「リスタデール卿の謎」と「マン島の黄金」。

 

「リスタデール卿の謎」は、ポアロやミス・マープルなどの探偵が出てくるわけではなく、「ちょっといい話」風のものが多かった。

ここに誰かしら探偵的な人物を出したのが「パーカー・パイン登場」なんだな。

 

わたしはこういうほんわかした物語集が好き。

赤毛のアンシリーズでいうと、「アンの友達」。

アンとあまり関係のないアボンリー付近の人たちの物語を集めた短編集。

 

そういえばよく読んでいた頃も好きな一冊だったな、と思い出した。



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