「アルプスの少女ハイジ」に見るすぐれた演出
昔のアニメというのはすごい。
本当の演出というものが分かっていた。
具体的に言うと、「なんでも言葉で説明するなら、演出など要らん」ということだ。
たとえば、少年Aが少女Bを嫌っているとする。
1.AがBに対し「おまえなんか嫌いだ」というセリフを言うことで、嫌っていることを視聴者に伝える。
2.AがCに「僕はBが大嫌いなんだ」というセリフを言うことで、嫌っていることを視聴者に伝える。
3.Aが歩いていると、前方に友人たちと一緒にBが歩いて行くのが見える。Aはわざと足早にそのグループを追い抜き、追い抜きざまにわざとBをこづき、憎々しげな表情でBをにらみ、去って行く。
なんでも1の方法で片づけるなら、演出なんていらんじゃないか、ということを言いたいのである。
わたしが幻滅したのは、それですら相当前の話なのだが、宇宙防衛軍か何かのアニメだった。
松本零二世界の話で、「あの」キャプテンハーロックも出てくる。
ハーロックといえば往年のアニメではカリスマだ。
正規の軍というのは国側・政府側・公的な側だ。ハーロックは海賊だから、その逆側に存在している。
防衛軍だか何だかのほうのリーダー格(だったと思う)は、当然ハーロックとは敵対する男だ。
二人はバーで偶然出会う。(たぶん)
そしてリーダー格とハーロックは、「一晩酒を飲み語り明かして、お互いのことがよく分かった」と熱い握手を交わしていたのだ。
ええっ! 語り明かしただけでそんなに分かって、そんなに信頼できるようになるの!?
ずいぶんお手軽だと思った。
「酒を酌み交わす」というのが男の友情のイメージだってことは分かる。
古今東西、そうだった。
でもそれは、そこに至るまでの土台があってのことだと思う。
友情や信頼関係を深める出来事であれ、敵あるいはライバルとして戦ってきた過去であれ、互いに触れ合う歴史があったからこそ、いい酒が酌み交わせるのではないだろうか。
そういうエピソードをうまく描かずに、ただ「酒を飲んで一晩語ったら、信頼できる男と分かった」って言われても、ハーロックはそんなお手軽な男なのか?という不満しか湧いてこなかった。
ほんのちょっと、そういうエピソードを描けばよかった。
そして「お互いが理解できた」と言葉で言うのではなく、それが場面で描かれていたらよかった。
あまりにも抒情がないじゃないか。「お互い分かったよ」「な!」みたいなのって。
翻って、昔のアニメを見てみると、うまく描かれているなぁ、という場面が多い。
すっかり忘れてしまっているけれど、思い出せるものを思い出してみる。
「アルプスの少女ハイジ」はストーリーも有名だから、多くの人が知っていると思う。
世捨て人のようにアルムの小屋で暮らしているアルムおんじのところに、孫のハイジがやってくる。それまで一緒に暮らしていた母方の叔母のデーテが、フランクフルトに良い働き口が見つかったので、育てられなくなったためだ。(アルムおんじは父方の祖父である。)
ハイジは山での生活とおじいさんを愛し、世捨て人だったおじいさんもハイジだけは深く愛するようになる。
しかしデーテが余計なおせっかいをし、フランクフルトのあるお金持ちのお嬢さんのお相手役にハイジを推薦。
ハイジは山の生活になじんでいたので行きたがらないが、デーテはうまく誘い出してフランクフルトに連れて行ってしまう。
お金持ちのお嬢さんクララはハイジが気に入り、ハイジもクララと仲良くなるが、ホームシックは烈しく、ついに夢遊病になってしまうのだった。
原作がある話とはいえ、このあたりも実にうまくできていて、ハイジはフランクフルトの生活になじまず苦労している。クララは好きだが、それ以外は抑圧された毎日だった。
そこへクララのおばあさまがやってくる。
おばあさまは気さくで、奇抜な人で、ハイジはおばあさまがいる間、山のことも忘れられた。
ところがおばあさまは帰ってしまった。もともと家事をとりしきっているロッテンマイヤーさんとそりが合わず、無理をしてクララとハイジを連れて森に行ったところクララが熱を出したので、一層いづらくなったのではないかと思われる。
おばあさまとの毎日が楽しかった分、おばあさまが去ったあとの日々は、おばあさま以前のフランクフルト以上に鬱々となったのだ。
心配したクララが悲しんでいるので、ロッテンマイヤーさんはハイジに山のことを話したり思い出したりすることを禁じた。「あなたはお嬢さまが可哀想だと思わないんですか」「あなたが山のことを話して、帰りたいと言ったりするたびに、お嬢さまは深く悲しんでいらっしゃるんですよ」
「クララが?」――ハイジは山のことを一切言わなくなり、思いが高じて夢遊病になる。
眠りながら屋敷をうろつくハイジを召使たちが幽霊だと思い込み、クララの父ゼーゼマンが呼ばれて戻ってくる。
ハイジを見て「元気がないようだが、お前も幽霊が怖いのかい?」「いいえ」
――おや、ハイジは本当に元気がないように見える。ただの絵なのに。
顔の描き方も同じ。ただおとなしい表情をしているだけ。声優の喋りもおとなしくゆっくりなだけ。(のように見える。)
そういえば眉のところにちょっと影が描かれている。
たったそれだけのことで、本当に元気がないということが、声を聞いていないときでも、絵を見ているだけで分かる。
と思ったら、もうひとつあった。
ハイジのほっぺの赤みをあらわす丸がなくなっていたのだ。
なるほど!!! この効果も大きかったのか。
絵にほんのわずかの違いを加えただけで、ハイジが心を病んでいることが描き出されていた。
追記:今見ると、目の白い部分も小さい。これが「暗い目」「うつろな目」を表していたのか。
・頬の赤い丸
・眉の影
・瞳の白い部分の大きさ
この3点だった。
ハイジは家出をしたことがある。
耐えられなくなって、一人でなんとかしてアルムに帰ろうと思って、クララの昼寝中こっそり家を出た。
もちろんペーターのおばあさんにあげる白パンを持った。
白パンは常に、フランクフルトにおけるハイジの悲しみと希望のモチーフなのだ。
ハイジはフランクフルトに来るつもりはなかった。
デーテにははっきりと断っていた。
デーテから話を聞いたおじいさんは、「勝手にあの子に話すがいい。あの子は行かん」と突っぱねて、納屋での仕事を続ける。
デーテはハイジは嬉しがるに違いないと考え、一人でハイジに話に行く。しかしハイジは「あたし、フランクフルトへは行かない」と断る。
デーテは困ってフランクフルトの魅力をあれこれ話すが、ハイジはなかなかなびかない。
しかしデーテが話し続けていると、ハイジが興味を示した事柄があった。「白パンもある?」 ペーターのおばあさんが「年寄りには黒パンは堅くてね。柔らかい白パンが食べたいねぇ」と言っていたので、おばあさんに白パンを持って帰ってあげられたらと思ったのだ。
デーテはここぞとばかり、「ああ、なんだってあるよ。・・・・・・おじいさんには・・・・・・煙草なんかいいよ」と、みんなにおみやげを持ち帰って喜ばせようとたきつける。
そして「今日中に帰ってくればいい」とうそをついて、ハイジを連れて行く。
ハイジはおみやげを持ち帰れると思って、「おじいさーん! いってきまーす!」と元気に去って行った。
おじいさんはハイジが喜んで行ったと思ったからこそ、あのあとあれほど人間嫌いが加速したのだ。
さすがのハイジもマイエンフェルトまで来ると気が付いて、「これでは今日中に帰れないから行かない」と言い出すが、そこまで来たら邪魔する者はいないし、デーテは力づくでハイジを連れていったのだった。(でもデーテは悪い人ではない。自分の基準で考えて、ハイジだってフランクフルトで生活を始めれば、楽しくてすぐに山のことなど忘れると思っていた。)
フランクフルトでの最初の食事のとき、出された白パンをハイジはパッととって、大切に膝に置く。
その後、ハイジがためこんだ白パンが見つかったとき、ハイジは身も世もなく嘆き悲しむ。それはおばあさんへのおみやげであると共に、ハイジの心の支えだったからだ。
常に白パンはモチーフとしてある。
家出したとき、ハイジは風呂敷包みのように大切に布に包んで、フランクフルトの街路を歩いていった。
そうしたら、ちょうど買い物から帰ってきたらしいチネッテに見つかったのだった。(チネッテはゼーゼマン家のメイド)
チネッテに腕をつかまれ、連れ戻されるハイジ。
「見逃して!」「冗談じゃないわ、見逃したことが知れたら、こっちが大変なことになるわよ」
ハイジはチネッテに乱暴に引きずられていく。
再び追記:これはハイジがクララの配慮で一人で森へ行こうとしたときだった。
白パンを持って山に帰ろうと家出したときは、ロッテンマイヤーさんに見つかったのだった。
腕をつかまれて馬車に乗せられるとき、ハイジの手から包みが落ちる。
ハイジの手から落ちた布包みが、石畳の道に当たってほどける。
街路に散らばる白パンと、振り返りながら劇的な悲しみの表情でそれを見つめるハイジ。
セリフがなくてもハイジの悲しみと、絶望が伝わってくるシーン。
白パンはハイジの「自分はそれほど長くいるわけではない」「家に帰る」「帰れる」という希望を象徴するものだった。(デーテは帰れるわけがないと知っていたので、好きなときに帰れるとも言っていた。)
そして苦心してためたパンが、無残に街路に散るのは、ハイジの希望が砕けたこと、自由に帰れるわけはないと知らしめられたことを表している。
と、思う。
その昔、演出というのは実に大切なものだった。と思う。
でもここでこれ以上のまとめをすると、またさらに長くなるのでこれで終わりにする。