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カフェ論

カフェめぐりに行った時期があった。


それで思ったのは、最近のこじんまりしたカフェっていうのは、なんていうか――いってみれば「アート」で、いってみれば「自己実現」だなってこと。


チェーン店でない限り、ほとんどが「こじんまり」している。一人や夫婦二人くらいで運営していくんだから、そりゃ当然そうだ。
だから「こじんまりしたカフェっていうのは」とあれこれ考えたけど、タイトルとしては「カフェ」にまとめた。


こじんまりしたカフェは、こだわりがある。
好きでなければやろうと思わないだろうから、当然のことだ。


コーヒーを愛し、コーヒーにこだわるオーナー。
豆について語り始めれば、熱く深く語れる。
豆の探求にも熱心で、勉強になるイベントや交流会などがあれば参加。中には教わる側でなく、伝える側のオーナーもいるだろう。
味について教えを乞えば、雄弁に語ってくれる。
「こういう味が好みなので、こんなのがいい」と希望を伝えただけでも、「これ!」というだけでなく、どんなバランスでどんなテイストでどんな後味があって、そして今の主流の味の好みはこれこれだけど、それからはずれているから数が少ないとか、合っているからあれもこれもあるし、あれはこうだしこれはこうだと教えてくれる。


twitterやFacebookを使っていて、いろいろと発信している。
「こんな豆が入荷しましたよ」
「今の時期、こんなブレンドを出していますよ」
「今度の土日は交流会参加のため、休業いたします」
「いついつどこどこに出店します。ぜひ足を運んでくださいね」


雰囲気を大切にし、店のインテリアにもこだわりがあるオーナー。
統一感のあるテイスト。
店に足を踏み入れれば、その店の世界観に包まれ、ゆっくりとその世界を味わうことができる。
その世界を壊すのを恐れて、ちょっと小声になってしまったり、自分も「雰囲気のある客」であろうとしたりして。
飾られているテーブルの小さな花、メニューブック、壁や棚のディスプレイ、並んでいる本だったりポスターだったりレコードジャケットだったりもテーマがある。
そのコンセプトを愛し、浸りたいと思うお客は、常連となるのだろう。


そういう人もtwitterやFacebookを使って、いろいろ発信する。
「今年も季節の**スイーツ(あるいはパスタとか)、始めました」
「北欧雑貨**さんで、こんな雑貨を買いました。どこどこに飾って毎日眺めてます」
「今週火曜日は営業します(火曜定休だけど)。その代わり金土お休みします」
「**グループさんの展示会を当店で開催中です。ぜひお越しくださいね」


人との交流や、居心地のよい空間を提供することを使命とするオーナー。
おいしいランチをリーズナブルな価格で提供。
またはこだわりのヘルシーランチを提供。またはすべて手作りのスイーツを提供。
またはこだわりぬいたお手製キッシュを常に数種類――キッシュ以外は置かない。
ゆっくり楽しんでもらえるように、テーブルの広さや配置を工夫していたり。
椅子にこだわっていたり、インテリアや窓の大きさや音楽やその他こだわっていたり。


そういう人もtwitterやFacebookを使って発信。
「今日も営業終了。たくさんのお客さまに来ていただいて――」と日記的なのや。
「**を入荷することができました(レコードだったり、食べ物材料だったりね)」とか。
「連休中は休まず営業します。翌週火水木は連休させていただきます」と知らせたり。


こじんまりしたカフェで、営業もオーナーだけかオーナー夫婦だけが多いから、臨時休業もある。
昔みたいに「店をやってるから休んじゃいられないんだ!」なんて昭和みたいなことはない。
家庭の何かがあれば休む――それが突然の不幸みたいな重大なものでなくても。
子供の学校行事だって重要なことだもの。
愛する自分の「店」をよくするために役立つものも、大切。勉強になるイベント、研究に役立つ交流、広報につながる活動。そのために店を閉める日もある。それは仕方ない――その日の営業はできないけど、必要経費だわ。


こだわりのカフェのこだわりのオーナーたちは、妥協を好まない。
客商売だからまったく妥協しないわけにもいかないけど、必要以上に妥協して自分の夢やコンセプトを曲げるのは、本末転倒だ。


そう、だからそういうカフェは、価値あるものを創り出したいと思っている。
時間つぶしや待ち合わせで使ってもらって儲けが出さえすればいいから、駅前に出店するのが第一で、味やら居心地やらは二の次という安っぽい店とは違うのだ。チェーン店にしろ個人の店にしろ。
今はそうでなければ客もつかない時代である。


わたしが感じるのは、いってみれば、そういうカフェにとってお客は、オーディエンスと同じだってこと。
コンサートを聴きに来て、それがたまたまか、もともと好きでいてくれたか、いずれにしても「来てよかった」「素敵だった」と思ってほしい。そのために努力する。
「拍手してくれ」と言ってるわけじゃなくて、それはあくまで観客の判断で、リピートするかどうかも観客の判断だけれど、その味なり空間なり雰囲気なり何なりが気に入ってもらえて、「よかったよ」と思ってもらえることが目標。


アートなんだな。
自己実現といってもいい。


仕事の形として、やりがいがあっていいね。


――その対極ってほどでもないんだけど、(コンセプトや統一感がないわけではないので)、昭和な営業をしているカフェも知っている。


そこは前から通っていて、ときどきしか行かないけれど、何年も通っているカフェなのだ。
わたしが初めて行ったときから白髪まじりのマスターで、だからもう70代ではあったと思うのだ。
亡くなって一年以上になる。奥さんと二人でやっていたけれど、奥さんのほうは店を続けている。


通うとき、営業日を気にしたことはなかった。
いつでも営業していたのだ。
たまたまかもしれないけど、わたしが行くといつも店は開いていた。
たまにふらっと行くわたしが、朝とか夜遅くとかでない限り、いつ行ってもすごすご帰ることがなかったのって、すごいことだ。


ここ一年でしたカフェめぐりでは、「あれっ?」ということが何度もあった。
この時点でひとつの店には最大でも3~4回。それで閉まっている状態に出くわすのがあるのだから、わたしも学習した。
ちゃんとtwitterとか店のサイトで確認しなきゃダメだ、と。
食べログなどの「定休日は何曜日」というのは当てにならない。臨時休業日だってあるし、営業時間がいつのまにか変わっていることもあった。
特に祝日や連休や年末年始などは確認が必要だ。
店によってはそれ以外でも油断できないことがある。


この前世代の店は、安定感があった。
10年後もここで、同じように営業してくれている、という安心感。
営業はしていても、「こういうコーヒーこそ至高だと発見した!!」といって味やその他が変わってしまった、なんてこともないだろう。


同じ内装で、同じ笑顔で、同じ味で、そしてほぼ休みなく営業してくれている。
いつ行っても変わらない。


わたしも年をとったので、安定の心地よさが以前以上に分かる。
相手はわたしより年上だろうから、いつまでも「10年後もある」とはいかないだろうけど、よほどのことがない限り、そこにいてくれる。
――なんか、まるで、こういう言い方をすると、家族や故郷のようだなぁ。


この安定した店が年代的に昔の世代の人たちだからといって、コンセプトやテーマがないわけではない。


コーヒーはマスターの個性が出ている。
わたしが好きでいつも飲むブラジルサントスのストレートは、がつんとした味だった。
マスターがいなくなって、次の若い人に変わったとき、インパクトが少ないと思った。ああ、あれはマスターの味だったんだなと思った。


マスターが今の流行りの味の傾向とか、ブレンドとか、希少な豆についての知識とか、どこまで追っていたか分からない。
わたしはあまり店の人と会話を楽しむタイプではないからだ。
ただ少なくとも、漫然と淹れていたのではないことは分かっていたし、いなくなってから改めて実感した。
マスターらしい味わい、ブレンド、コーヒーがあった。それが正統的か、斬新か、最新かはさておき、マスターの個性が出ていた。それがこだわりでなくてなんだろう。


店に流れる音楽は、クラシックだった。
それも「名曲選」みたいな当たりさわりのないものではなかった。
交響曲がよく流れていた。
何曲も聴くには相当長居が必要だ。
これもこだわりだと思う。
そして、わたしが好まない交響曲はあまり聴いたことがなかった――つまり、交響曲ならなんでも無造作に流していたのではなく、好きなものを流していたのだと思う。
いつの時代とか、どの作曲家というのはあまり考えず、なんとなくBGMとして聴こえていたので、「このあたりが多かった」とはわたしには語れない。
でもわたしがあまり得意でない現代に近い時代だったら、「ああ、この曲はあまり好きな作曲家じゃないんだよな」と気づいたはず。
だから流れている音楽にも、マスターの個性は出ていた。


広々としたテーブルは、知らないお客同士の近さをなくし、居心地をよくしていた。


本棚に置かれている本は、マスターか奥さんが好きな本なんだろうなと思った。
なんとなく、「ああ、こういうのが好きなんだ」と分かるチョイスだったから。
たくさんの人に開かれて、手あかがついてボロボロになっている年代物も多かった。


カウンターの背後にはカップが並び、好きなものを選ばせてくれた。


飾られている花は、奥さんが好きでやっているのか、花屋さんに頼んでいるのか、クラシカルでゴージャスだった。
どちらにしても、いつもテイストは同じだった。統一感があった。


でもその店では、マスターが主役ではなかった。
強い個性を放っていたけど、なんていうのかな、アーティストじゃなかった。
アートクラスのものを作ることのできる職人。無形文化財とかの人も「職人」ではあるけれど、大量生産の機械とは違う。そういう感じ?


だから自己実現が少し後ろにある。
常に店を開けていて、「仕事」なのだ。楽しい仕事だろうけど、好きな仕事だろうけど、こだわってるけど、まず「仕事」であり「営業」なのだ。
「アート」でなくて「ワーク」。


もちろんそりゃ、当然今どきのこだわり若オーナーたちにとっても、それはワークだ。
往年のマスターにとっても、店はアートだ。


どちらが欠けても一流ではない。でしょ?


バレエを見に行って、2万も3万ものチケットを買って、「アートだから好きなように踊る!」と技術二の次の踊りを見ても、満足しない。芸術に思えない。最低限のテクニックの土台はないと。そして『プロ』にあるべき土台は低くない。
だからって、「私には素晴らしい技術がある!」とただぶんぶん回って、飛び跳ねられても、そんなのは感動しない。芸術に感じられない。


この話題に結論はなくて、旧世代と新世代、どちらがいい悪いと言っているわけじゃない。
違うなぁと思ったので書き連ねてみただけ。


ただ安定の店のほうは、もうわたしは1軒しか知らないから、なくなってほしくはないなと思うだけ。


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