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Status Message:I am strong enough

「スーパーガール」を見て夫との意見の相違が

「スーパーマン」を当然知っている夫は、録画一覧に「スーパーガール」の文字を見て、「とったの?」と言った。

そこで「見てみる?」ということになり、久しぶりに2人でドラマを見た。夫が見ることはほとんどない。「チャック」と「シャーロック」以来だ。

 

しかし見ているうちにやがて、夫はうるさくなった。

 

スーパーガールが首筋に注射をされて、倒れる。

「弾丸もはねかえしてたのに、どうして注射針は刺さるわけ?」

「この針の材質で弾丸を作ったら、クリプトン星のやつら、倒せるんじゃない?」

 

弾丸をはねかえしていたのは、スーパーガールの体だったのか、特殊材質の衣装だったのか分からない。なんかあの服が特殊なものでできていると言っていたような気がする。

でも巻き戻すのは面倒だったので、やめた。

 

クリプトン星からはスーパーマンとスーパーガールだけでなく、刑務所を脱出した悪いやつらも来ていたようで、そいつらが襲ってきていたのだが、それもあの針が作れるなら倒せるのではないかというわけだ。

 

その悪人が特殊な斧で襲いかかってきて、戦うスーパーガール。

やられそうになってスーパーガールは「死にたくない、助けて」というようなことを言う。

夫はスーパーヒーロー(ヒロイン)が命乞いをするなんて、納得いかないらしい。

 

でもさー、結構言うよ。アメリカドラマでは。いつもかっこつけてる捜査官でも。

まあ、男は言わないか。あまり。でもあれこれ喋って気をそらそうとはする。

 

潔く諦めるのをよしとする文化ではない。それが顕著になってきているのだと思う。

「命乞いなんかしたって、相手がやめるわけないじゃないか」と夫は言う。

いや、そうじゃないんだと思う。とにかく何か言って、なんでもやって、時間を稼ぐ。

そうしているうちに、何か方策が見つかるかもしれないし、仲間がやってくるかもしれない。突然の雷で停電して犯人がひるむとか、大地震で縛られている縄がほどけるとか、何か天変地異だってあるかもしれない。

何が起こるか分からない。そのとき生きていなければ、そのチャンスを活かせない。

 

とにかく何をしてでも時間を延ばそうとする。それがアメリカドラマにおけるヒーローたちの心理のようだ。

かっこなんてかまっちゃいられないのだ。

プライドも、美学も、そんなもの、ク○の役にも立たない。

時間を稼いで、そのおかげで助かることができたら、悪人をぶちのめす。

 

「でもそんな時間稼ぎ、効かない」と夫は言う。

効くか効かないか考えてる暇はないんだよ。なんでもやる。とにかくやってみる。

「うん、これは効かないな。じゃあ、ああいう手はどうだろう? こういう説得はどうだろう?」なんて考えてたら、とれる手も取り逃すし、何が効くかなんてどうしてわかる?

相手も冷静に「そんなことを言って時間稼ぎをする気だな」と思うとは限らない。自分と同じ考え方をする、あるいは自分と同じでなくてもとにかく合理的な考え方をすると、どうしてわかる?

相手と戦っているときは(肉弾戦にしろ心理戦にしろ)、互いに緊張しきって戦っている。そういうとき、相手が常にひとつの行動しかとらないとは限らない。

命乞いされてちょっと嬉しくなってしまうかもしれない。殺すには殺すが、あと数秒、甘美な泣き言を聞いていたいと思うかもしれない。はっきりそう思うのでなくて、聞いていたくてつい手を止めるかもしれない。もしかしたらそれが狙い目になるかもしれない。

 

予断で「こういうことを言っても効かないだろう」「相手はむしろすぐに殺そうとするだろう」と思い込むと、チャンスを逃す可能性もある。

チャンスがなくなる可能性ももちろんあるが。

 

思うに、必死の行動をとっている側も、そこまであれこれ考えてのことではないのだと思う。

とにかくやってみる。どうやら逆効果らしいと見てとったら、すぐに戦法を変えてやってみる。考えた末の素晴らしい戦略が通用するとも限らないのだし。

 

この徹底した「ネバーギブアップの精神」は、他の国民にはちょっと理解しがたいところがある。

これほど見慣れたわたしでも、臨機応変になんでもしようとする場面には、「え」と思うことがある。

 

これもまた、アメリカの底知れぬ力を表しているのではないかと思う。

かなわないよ、こんな人たちに。がむしゃらって短期決戦なものなのに、アメリカ人は執拗だ。

 

 

 

 

夫はさんざんあらさがしをして、重箱の隅をつつきながらうるさく見ていたが、戦闘シーンに工夫がなくつまらないと何度も繰り返して終わりになった。

スーパーガールと脱走囚の戦いで、

 ・目からビームを出せるのなら、どうして斧でなく直接相手に向けないのか

 ・圧倒的に優勢だった相手は、どうしてとどめを刺せなかったのか

 ・同じクリプトン星人なら、同じパワーを地球では出せるはず

  それなら地球人の女性が、地球人の男性より腕力がないのと同じで、

  圧倒的にスーパーガールが負けるのではないか

 ・いったん劣勢になったあと、何かがあって逆転する、それが闘いシーンの定石

  なんの理由もなくスーパーガールが逆転してリアリティがない

とにかく闘いにリアリティがなかったという。

闘いシーンの定石がどうのこうのというのは、ゲームだかアニメだかの話らしい。

 

悪いけど、夫もストーリーに関してはけなしていた「ヤマト2199」とかより面白いけど。

でも夫は、闘いシーンについては、「ヤマト2199」ですらその定石を守っていると言う。

 

 

んー、つまり、どうでもいいってことじゃないかな。

 

だってちょっとした闘いシーンがどれほどリアリティあっても、戦争の裏側にある政治や駆け引きや国の事情、人間と人間の(宇宙人と人間か?)感情や事情、絡み合い、そういうものが面白くなくては、見るに堪えない。

変な陶酔型ラブストーリーシーンが続くほうが、わたしにはリアリティもないし、面白くもない。

 

夫はリバータリアンの考え方に共感するようなことを言っていたことがある。

 

つまりそういうことじゃない?

 

経済活動に任せるとするなら、ささいな戦闘シーンにこだわってコストをかけるより、早い展開で飽きさせないようにしたほうがいい。

実際この「スーパーガール」第1話は、よくできていたと思う。ことの起こりの説明をしながら、次から次へと展開していき、たたみかけられてしまう。次も見るだろう。

むしろ、戦闘シーンが長すぎたらだれる。

 

経済活動とそのためのマーケティングの観点から考えるなら、とにかく第1話にすべての力をまず投入しなければならない。

パイロットで人の心をつかまなければ、シリーズ化はないのだから。つかむのは、モニターの視聴者だったり、局の人だったりするのだろう。そのターゲットに合わせた作り方をしなければ、2話目以降はないのだ。

 

ドラマはコスト管理もシビアだ。

映画はどうか知らないが、ドラマではきっと、不要なシーンにお金をかけることを避けるのだろう。

 

黒澤明は細部に神が宿るという信念で、映画を撮ったかもしれない。

ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」のドキュメンタリーでは、あれも同様で、見えないペティコートに本物の絹を使い、幾重にもペティコートを重ねたという。

 

でもそんなコストはもうかけられない時代なのだ。

ドラマの中で持っている紙コップのコーヒーが、いかにも軽そうでもいいのだ。

飲んでも唇にもカップにもコーヒーのしみひとつつかなくても、もういいのだ。

「コーヒーチェーンのコーヒーを持ってるな」と分かればいい。それは『記号』なのだ。「これを持っていて、口に運んだからには、コーヒーを飲んだってことですよ」という記号。

 

夫が面白くないと思ってもいいのだ。ターゲット層に入っていないから。

そんな層を満足させるためにコストも使えないし、限られたシーン時間も使えない。もっと大量の層に訴えるシーンを増やす。そのためならコストも使う。

そうしないと売れない。売れなければ、打ち切りだ。

 

これこそが「経済によって動いている」ってことじゃない?

 

「その世界の中でのリアリティ」は、あったほうがいい。

でもなくてもいい。

特に「スーパーガール」みたいな爽快はちゃめちゃOKドラマでは。

 

それ以外のドラマでも、「ドラマだから」と納得する層が増えてくれば、なくてもいい。

良質なドラマが、すなわち売れるドラマ、というわけではない。

すべてが経済によって決まっていく。それが自由経済。今の人類にとっては、結局これが一番ましで、共産主義も王政も宗教国家も今ひとつ。運営が人間なんだから、理想の世界を作るのは難しい。

自由経済の論理で進んでいるアメリカのドラマの今、ってことなんだと思う。

 

とにかくわたしに言わせれば、CGが綺麗だからとか、いろいろな理由で欠点に目をつぶって最近のアニメや日本ドラマが見られるのなら、これだって目をつぶって見ればいいんだよ。

 

 

 

 

 

でもたぶん、夫とは平行線にしかならず、言い争いで終わるのは面倒なので、言わない。

そしてもう夫とはドラマを見ない。




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