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Status Message:I am strong enough

仕事をすると気がまぎれることについて

年末年始、Iが薬が効かなくなっているのではと悩んでいて、いつもならもうちょっと早めに戻ってくるところを、わたしも長めにいた。
相談に乗るというほどでもなく、Iが話してきたときは話を聞くことと、普段通りに一緒にいることだけしかできないけど。でも一応、Iの病気発覚以来、わたしは本当の「いつも通り」ではなくなっていて、なるべく聞き役を担当したりして、普通の友達よりも都合のいい友達だ。「Do as you would be done by」といったところ? 自分だってギブアンドテイクじゃなく、いつも聞いてくれて相槌係をしてくれる人がもっとも嬉しいわけだし、よけいなアドバイスや押しつけがましい励ましはうっとうしい。
それに、友達との約束のほうが優先で、わたしのためには特別に休みを取ったりしなかったり、割とないがしろにされているというか、いつでも控えのポジションだ。それでいいかなと思う。もちろんIのほうも気を遣っているところもあって、わがまま勝手なわけではないのだけれど、Iとわたしの関係は、I優位だ。
 
まだ年始の初診療まで2日ほどあるところで帰ってきたが、その頃にはIも職場に行き始めるので、電話してみたらだいぶ元気だった。
やっぱり仕事に行くと気はまぎれる。
やらなければならないことがあって、悩むのは後回し、仕事が終わってからにしなければならないからだろう。
わたしも何かあったときはやっぱりそうだし。たまたま長い連休に入ってしまったり、何日か仕事がないときだったりすると、くよくよ考えてしまうことになる。
ネガティブな思いは、追い払ってもすぐに戻ってくるし、考えないようにしようと思っても難しい。
 
山歩きに行くのって、似たような効果があるかもしれない。
観光地と化した間違いようがない山でない限り、低山であっても、道間違いをしないよう、滑落をしないよう、暗くなっても下山できていないなんてことのないよう、注意を向けていなければならない。
山のことだけに意識を向けなければならないから、頭の一日プチ断食みたいになって、スッキリするのだろうと思う。その上きつい運動でアドレナリンやセロトニンも出るし。
 
ただ、山歩きは「こんなときに行っていていいのかな」と、状況によっては罪悪感を感じることもある。
仕事は「仕事だから仕方ない」ので、さらに効果的なのだと思う。
 
父も、最後の最後、具合が悪くなってどうしようもなくなっても、仕事に行っていた。
行っても仕事にならず、すぐに横になったりしなければならず、職場の人がやってきて「休ませてください」と母に告げたから行かなくなっただけだ。
できることなら家の外に出ていくほうが、嫌な考えも浮かんでこないし、浮かんできても振り払うのが家にいるときより難しくない。
 
それで、クビを切られる前の職場Bのことを思い出すのである。
以前同じ部署にいたずっと年上の社員男性が、わたしが辞めることになる少し前から激やせしていて、胃がんだと聞いた。
詳しい病状はさすがに聞くことはなかったので、治療が順調なのかどうかも分からなかったが、心配になるほどの痩せ方でも仕事に来ていた。
 
ただ、毎日ではなかったようだ。
やはり具合が悪くなってしまって来られない日もあると推察できた(見かける率とか、人の話の裏側を読んだりして)。
 
その人と同じチームにいるのは、たった一人の女性社員。
かつてはバリバリのキャリアウーマンだったので(メインストリームから外されて、閑職に追いやられてしまったのだが)、歯に衣着せぬ物言いがご自分でもお気に召しているという人。
 
職場Bで数少ない友達と言える人と最後に話したとき。
このとき胃がんだということも教えてもらった。
私「でも仕事に来ているから、治療は順調なのかな」
友「うん、でもきついみたい。来ても休んでたりするらしいよ」
私「そうなんだ――でも家にいるよりいいよね」
友「キャリアさんなんかは言ってる。具合の悪いときは家でゆっくり休んでたらいいのに、って。来ても仕事にはならないからさ」
 
キャリアさんのことだから、きつい調子で批判していたのだろうと想像できた。
 
でもさ、家で休んで何するの? って話だと思う。
そりゃ体はきついよ。強い薬で治療しているときは、それにやられてしまったりするよ。
それで体はつらくて、仕事に来ても大変かもしれない。
 
でも家にいても悪い考えが押し寄せてくるばかりだもの。
 
職場Aのほうで、よく聞くとは言わないが名前は誰でも知っている病気から、何万人に一人の症例で悪化し、結局車椅子になってしまったという障害者の人がいた。
2年だか3年だか入院することになり、ひどいときは生死が危ぶまれ、病気は治ったが足は動かなくなった。リハビリにまたさらに年月をかけ(これも2~3年の中に含まれているかもしれないが)、ついに職場復帰を目指す段階まで来て、毎日施設に通ってみることで、通勤したり週5で働いたりすることに慣れる(あるいはできるかどうかテストする)計画だった。
 
こういう場合なら、「きついなら家でゆっくり休んでいたらいいのに」も納得できる。
大変な病気であっても、元とまったく同じに復活するのではなくても、「治るまでの辛抱」だからだ。生死にかかわらないところまで治ることができるのなら、家などで「体を治すことに専念」するのもいい。
 
でも――もうそこまで治ることはなくて、できるだけ命を永らえよう、できるだけ生きていられる時間を長引かせよう。もしできるなら、なるべく動ける状態での命を長引かせよう。ということなら・・・・・・
 
きつくて家で休んでいるより、仕事に行っていたほうが気持ちが楽になる。
家にいたら不安や恐怖や絶望に圧しつぶされる。
そんな思いは、どうせなくならないのだから、できるだけ逃げていたいのだ。仕事に行くことで。何かをすることで。
 
「来てもらってもこっちだってむしろ迷惑だし」っていうのが本音だろうけれど。だから「家で休んだら」と言われてしまうのは仕方のないことだけれど。
 
以前たまたま全然関係ないジャンルのランキングサイトで見つけた、肺がんの若い女性のブログ、少しの間見ていたけれど、やっぱり仕事に行っていた。
ステージは進んでいたけれど、新薬を使うことになり、平常通りではないにしても仕事はできそうだった。
でもときどき副作用で具合が悪くなったりもするようで、それを心配して結局仕事はクビになっていた。
そんなの、よく風邪をひいて休む人と同じくらいじゃない?と思っても、職場にしてみれば「風邪はひかないかもしれないが、副作用は発現確率が高い」ということなのだろうけど、働いたほうが気持ちも張りがあり、前向きにもなれるし、その人にとってはよさそうだったのに。
 
まあ、働くとか雇うというのは、福祉活動ではなく営利活動なので仕方ないけれど、勝手な気持ちとしては、仕事に行けるというのは救いだと思うのである。




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